みだれ髪
与謝野晶子
1、夜の帳(ちゃう)に、ささめき盡きし、星の今を、下界(げかい)の人の、鬢のほつれよ
2、歌にきけな、誰れ野の花に、紅き否(いな)む、おもむきあるかな、春罪(はるつみ)もつ子
3、髮(かみ)五尺、ときなば水に、やはらかき、少女(をとめ)ごころは、祕めて放たじ
4、血ぞもゆる、かさむひと夜の、夢のやど、春を行く人、神おとしめな
5、椿それも、梅もさなりき、白かりき、わが罪問はぬ、色桃(いろもゝ)に見る
6、その子二十(はたち)、櫛にながるる、黒髮の、おごりの春の、うつくしきかな
7、堂の鐘の、ひくきゆふべを、前髮の、桃のつぼみに、經(きゃう)たまへ君
8、紫に、もみうらにほふ、みだれ篋(ばこ)を、かくしわづらふ、宵の春の神
9、臙脂色(ゑんじいろ)は、誰にかたらむ、血のゆらぎ、春のおもひの、さかりの命(いのち)
10、紫の、濃き虹説きし、さかづきに、映(うつ)る春の子、眉毛(まゆげ)かぼそき
11、紺青(こんじゃう)を、絹にわが泣く、春の暮、やまぶきがさね、友(とも)歌ねびぬ
12、まゐる酒に、灯(ひ)あかき宵を、歌たまへ、女(をんな)はらから、牡丹に名なき
13、海棠に、えうなくときし、紅(べに)すてて、夕雨(ゆふさめ)みやる、瞳(ひとみ)よたゆき
14、水にねし、嵯峨の大堰(おほゐ)の、ひと夜神(よがみ)、絽蚊帳(ろがや)の裾の、歌ひめたまへ
15、春の國、戀の御國の、あさぼらけ、しるきは髮か、梅花(ばいくゎ)のあぶら
16、今はゆかむ、さらばと云ひし、夜の神の、御裾(みすそ)さはりて、わが髮ぬれぬ
17、細きわが、うなじにあまる、御手(みて)のべて、ささへたまへな、歸る夜の神
18、清水(きよみづ)へ、祇園(ぎをん)をよぎる、櫻月夜(さくらづきよ)、こよひ逢ふ人、みなうつくしき
19、秋の神の、御衣(みけし)より曳く、白き虹、ものおもふ子の、額に消えぬ
20、經(きゃう)はにがし、春のゆふべを、奧の院の、二十五菩薩、歌うけたまへ
21、山ごもり、かくてあれなの、みをしへよ、紅(べに)つくるころ、桃の花さかむ
22、とき髮に、室(むろ)むつまじの、百合のかをり、消えをあやぶむ、夜(よ)の淡紅色(ときいろ)よ
23、雲ぞ青き、來し夏姫(なつひめ)が、朝の髮、うつくしいかな、水に流るる
24、夜の神の、朝のり歸る、羊とらへ、ちさき枕の、したにかくさむ
25、みぎはくる、牛かひ男、歌あれな、秋のみづうみ、あまりさびしき
26、やは肌の、あつき血汐に、ふれも見で、さびしからずや、道を説く君
27、許したまへ、あらずばこその、今のわが身、うすむらさきの、酒うつくしき
28、わすれがたき、とのみに趣味(しゅみ)を、みとめませ、説かじ紫、その秋の花
29、人かへさず、暮れむの春の、宵ごこち、小琴(をごと)にもたす、亂れ亂れ髮
30、たまくらに、鬢(びん)のひとすぢ、きれし音(ね)を、小琴(をごと)と聞きし、春の夜の夢
31、春雨に、ぬれて君こし、草の門(かど)よ、おもはれ顏の、海棠の夕
32、小草(をぐさ)いひぬ、『醉へる涙の、色にさかむ、それまで斯くて、覺めざれな少女(をとめ)』
33、牧場いでて、南にはしる、水ながし、さても緑の、野にふさふ君
34、春よ老いな、藤によりたる、夜(よ)の舞殿(まひどの)、ゐならぶ子らよ、束(つか)の間(ま)老いな
35、雨みゆる、うき葉しら蓮(はす)、繪師の君に、傘まゐらする、三尺の船
36、御相(みさう)いとど、したしみやすき、なつかしき、若葉(わかば)木立(.だち)の、中(なか)の蘆舍那佛(るしゃなぶつ)
37、さて責むな、高きにのぼり、君みずや、紅(あけ)の涙の、永劫(えうごふ)のあと
38、春雨に、ゆふべの宮(みや)を、まよひ出でし、小羊君(こひつじきみ)を、のろはしの我れ
39、ゆあみする、泉の底の、小百合花(さゆりばな)、二十(はたち)の夏を、うつくしと見ぬ
40、みだれごこち、まどひごごちぞ、頻なる、百合ふむ神に、乳(ちゝ)おほひあへず
41、くれなゐの、薔薇(ばら)のかさねの、唇に、靈の香のなき、歌のせますな
42、旅のやど、水に端居(はしゐ)の、僧の君を、いみじと泣きぬ、夏の夜の月
43、春の夜の、闇(やみ)の中(なか)くる、あまき風、しばしかの子が、髮に吹かざれ
44、水に飢ゑて、森をさまよふ、小羊の、そのまなざしに、似たらずや君
45、誰ぞ夕(ゆふべ)、ひがし生駒(いこま)の、山の上の、まよひの雲に、この子うらなへ
46、悔いますな、おさへし袖に、折れし劔(つるぎ)、つひの理想(おもひ)の、花に刺(とげ)あらじ
47、額(ぬか)ごしに、曉(あけ)の月みる、加茂川の、淺水色(あさみづいろ)の、みだれ藻染(もぞめ)よ
48、御袖(みそで)くくり、かへりますかの、薄闇(うすやみ)の、欄干(おばしま)夏の、加茂川の神
49、なほ許せ、御國遠くば、夜(よ)の御神(みかみ)、紅盃船(べにざらふね)に、送りまゐらせむ
50、狂ひの子、われに焔(ほのほ)の、翅(はね)かろき、百三十里、あわただしの旅
51、今ここに、かへりみすれば、わがなさけ、闇(やみ)をおそれぬ、めしひに似たり
52、うつくしき、命を惜しと、神のいひぬ、願ひのそれは、果してし今
53、わかき小指(こゆび)、胡紛(ごふん)をとくに、まどひあり、夕ぐれ寒き、木蓮の花
54、ゆるされし、朝よそほひの、しばらくを、君に歌へな、山の鴬
55、ふしませと、その間(ま)さがりし、春の宵、衣桁(いかう)にかけし、御袖かつぎぬ
56、みだれ髮を、京の島田に、かへし朝、ふしてゐませの、君ゆりおこす
57、しのび足に、君を追ひゆく、薄月夜(うすづきよ)、右のたもとの、文がらおもき
58、紫に、小草(をぐさ)が上へ、影おちぬ、野の春かぜに、髮けづる朝
59、繪日傘を、かなたの岸の、草になげ、わたる小川よ、春の水ぬるき
60、しら壁へ、歌ひとつ染めむ、ねがひにて、笠はあらざりき、二百里の旅
61、嵯峨の君を、歌に假せなの、朝のすさび、すねし鏡の、わが夏姿
62、ふさひ知らぬ、新婦(にひびと)かざす、しら萩に、今宵の神の、そと片笑(かたゑ)みし
63、ひと枝の、野の梅をらば、足りぬべし、これかりそめの、かりそめの別れ
64、鴬は、君が聲よと、もどきながら、緑のとばり、そとかかげ見る
65、紫の、紅の滴(した)り、花におちて、成りしかひなの、夢うたがふな
66、ほととぎす、嵯峨へは一里、京へ三里、水の清瀧(きよたき)、夜の明けやすき
67、紫(むらさき)の、理想(りさう)の雲は、ちぎれ/\、仰ぐわが空、それはた消えぬ
68、乳ぶさおさへ、神祕(しんぴ)のとばり、そとけりぬ、ここなる花の、紅(くれなゐ)ぞ濃き
69、神の背(せな)に、ひろきながめを、ねがはずや、今かたかたの、袖ぞむらさき
70、とや心、朝の小琴(をごと)の、四つの緒の、ひとつを永久(とは)に、神きりすてし
71、ひく袖に、片笑(かたゑみ)もらす、春ぞわかき、朝のうしほの、戀のたはぶれ
72、くれの春、隣すむ畫師(ゑし)、うつくしき、今朝(けさ)山吹に、聲わかかりし
73、郷人(さとびと)に、となり邸(やしき)の、しら藤の、花はとのみに、問ひもかねたる
74、人にそひて、樒(しきみ)ささぐる、こもり妻(づま)、母なる君を、御墓(みはか)に泣きぬ
75、なにとなく、君に待たるる、ここちして、出でし花野の、夕月夜かな
76、おばしまに、おもひはてなき、身をもたせ、小萩をわたる、秋の風見る
77、ゆあみして、泉を出でし、やははだに、ふるるはつらき、人の世のきぬ
78、賣りし琴に、むつびの曲(きょく)を、のせしひびき、逢魔(あふま)がどきの、黒百合折れぬ
79、うすものの、二尺のたもと、すべりおちて、螢ながるる、夜風(よかぜ)の青き
80、戀ならぬ、めざめたたずむ、野のひろさ、名なし小川の、うつくしき夏
81、このおもひ、何とならむの、まどひもちし、その昨日(きのふ)すら、さびしかりし我れ
82、おりたちて、うつつなき身の、牡丹見ぬ、そぞろや夜(よる)を、蝶のねにこし
83、その涙、のごふゑにしは、持たざりき、さびしの水に、見し二十日月(はつかづき)
84、水十里、ゆふべの船を、あだにやりて、柳による子、ぬかうつくしき(をとめ)
85、旅の身の、大河(おほかは)ひとつ、まどはむや、徐(しづ)かに日記(にき)の、里の名けしぬ(旅びと)
86、小傘(をがさ)とりて、朝の水くむ、我とこそ、穗麥(ほむぎ)あをあを、小雨(こさめ)ふる里
87、おとに立ちて、小川をのぞく、乳母が小窓(こまど)、小雨(こさめ)のなかに、山吹のちる
88、戀か血か、牡丹に盡きし、春のおもひ、とのゐの宵の、ひとり歌なき
89、長き歌を、牡丹にあれの、宵の殿(おとど)、妻となる身の、我れぬけ出でし
90、春三月(.みつき)、柱(ぢ)おかぬ琴に、音たてぬ、ふれしそぞろの、宵の亂れ髮
91、いづこまで、君は歸ると、ゆふべ野に、わが袖ひきぬ、翅(はね)ある童(わらは)
92、ゆふぐれの、戸に倚り君が、うたふ歌、『うき里去りて、徃きて歸らじ』
93、さびしさに、百二十里を、そぞろ來ぬと、云ふ人あらば、あらば如何ならむ
94、君が歌に、袖かみし子を、誰と知る、浪速の宿は、秋寒かりき
95、その日より、魂にわかれし、我れむくろ、美しと見ば、人にとぶらへ
96、今の我に、歌のありやを、問ひますな、柱(ぢ)なき纖絃(ほそいと)、これ二十五絃(...げん)
97、神のさだめ、命のひびき、終(つひ)の我世、琴(こと)に斧(をの)うつ、音ききたまへ
98、人ふたり、無才(ぶさい)の二字を、歌に笑みぬ、戀(こひ)二萬年(..ねん)、ながき短き蓮の花船
99、漕ぎかへる、夕船(ゆふぶね)おそき、僧の君、紅蓮(ぐれん)や多き、しら蓮(はす)や多き
100、あづまやに、水のおときく、藤の夕、はづしますなの、ひくき枕よ
101、御袖ならず、御髮(みぐし)のたけと、きこえたり、七尺いづれ、しら藤の花
102、夏花の、すがたは細き、くれなゐに、眞晝(まひる)いきむの、戀よこの子よ
103、肩おちて、經(きゃう)にゆらぎの、そぞろ髮、をとめ有心者(うしんじゃ)、春の雲こき
104、とき髮を、若枝(わかえ)にからむ、風の西よ、二尺足らぬ、うつくしき虹
105、うながされて、汀(みぎは)の闇(やみ)に、車おりぬ、ほの紫の、反橋(そりはし)の藤(ふぢ)
106、われとなく、梭(をさ)の手とめし、門(かど)の唄(うた)、姉がゑまひの、底はづかしき
107、ゆあがりの、みじまひなりて、姿見に、笑みし昨日(きのふ)の、無きにしもあらず
108、人まへを、袂すべりし、きぬでまり、知らずと云ひて、かかへてにげぬ
109、ひとつ篋(はこ)に、ひひなをさめて、蓋(ふた)とぢて、何となき息(いき)、桃にはばかる
110、ほの見しは、奈良のはづれの、若葉宿(わかばやど)、うすまゆずみの、なつかしかりし
111、紅(あけ)に名の、知らぬ花さく、野の小道(こみち)、いそぎたまふな、小傘(をがさ)の一人(ひとり)
112、くだり船、昨夜(よべ)月かげに、歌そめし、御堂(みどう)の壁も、見えず見えずなりぬ
113、師の君の、目を病みませる、庵(いほ)の庭へ、うつしまゐらす、白菊の花
114、文字ほそく、君が歌ひとつ、染めつけぬ、玉虫(たまむし)ひめし、小筥(こばこ)の蓋(ふた)に
115、ゆふぐれを、篭へ鳥よぶ、いもうとの、爪先(つまさき)ぬらす、海棠の雨
116、ゆく春を、えらびよしある、絹袷衣(きぬあはせ)、ねびのよそめを、一人(ひとり)に問ひぬ
117、ぬしいはず、とれなの筆の、水の夕、そよ墨足らぬ、撫子(なでしこ)がさね
118、母よびて、あかつき問ひし、君といはれ、そむくる片頬、柳にふれぬ
119、のろひ歌、かきかさねたる、反古(ほご)とりて、黒き胡蝶を、おさへぬるかな
120、額(ぬか)しろき、聖よ見ずや、夕ぐれを、海棠に立つ、春夢見姿(はるゆめみすがた)
121、笛の音に、法華經うつす、手をとどめ、ひそめし眉よ、まだうらわかき
122、白檀(びゃくだん)の、けむりこなたへ、絶えずあふる、にくき扇を、うばひぬるかな
123、母なるが、枕經(まくらぎゃう)よむ、かたはらの、ちひさき足を、うつくしと見き
124、わが歌に、瞳(ひとみ)のいろを、うるませし、その君去りて、十日たちにけり
125、かたみぞと、風なつかしむ、小扇の、かなめあやふく、なりにけるかな
126、春の川、のりあひ舟の、わかき子が、昨夜(よべ)の泊(とまり)の、唄(うた)ねたましき
127、泣かで急げ、やは手にはばき、解くえにし、えにし持つ子の、夕を待たむ
128、燕なく、朝をはばきの、紐(ひも)ぞゆるき、柳かすむや、その家(や)のめぐり
129、小川われ、村のはづれの、柳かげに、消えぬ姿を、泣く子朝(あさ)見(み)し
130、鴬に、朝寒からぬ、京の山、おち椿ふむ、人むつまじき
131、道たま/\、蓮月が庵の、あとに出でぬ、梅に相行く、西の京の山
132、君が前に、李春蓮説く、この子ならず、よき墨なきを、梅にかこつな
133、あるときは、ねたしと見たる、友の髮に、香の煙の、はひかかるかな
134、わが春の、二十姿(はたちすがた)と、打ぞ見ぬ、底くれなゐの、うす色牡丹
135、春はただ、盃にこそ、注(つ)ぐべけれ、智慧あり顏の、木蓮や花
136、さはいへど、君が昨日(きのふ)の、戀がたり、ひだり枕の、切なき夜半よ
137、人そぞろ、宵の羽織の、肩うらへ、かきしは歌か、芙蓉といふ文字
138、琴の上に、梅の實おつる、宿の晝よ、ちかき清水に、歌ずする君
139、うたたねの、君がかたへの、旅づつみ、戀の詩集の、古きあたらしき
140、戸に倚りて、菖蒲(あやめ)賣(う)る子が、ひたひ髮に、かかる薄靄(うすもや)、にほひある朝
141、五月雨(さみだれ)も、むかしに遠き、山の庵、通夜(つや)する人に、卯の花いけぬ
142、四十八寺(...ぢ)、そのひと寺(てら)の、鐘なりぬ、今し江の北、雨雲(あまぐも)ひくき
143、人の子に、かせしは罪か、わがかひな、白きは神に、などゆづるべき
144、ふりかへり、許したまへの、袖だたみ、闇(やみ)くる風に、春ときめきぬ
145、夕ふるは、なさけの雨よ、旅の君、ちか道とはで、宿とりたまへ
146、巖(いは)をはなれ、谿(たに)をくだりて、躑躅(つゝじ)をりて、都の繪師と、水に別れぬ
147、春の日を、戀に誰れ倚る、しら壁ぞ、憂きは旅の子、藤たそがるる
148、油(あぶら)のあと、島田のかたと、今日(けふ)知りし、壁に李(すもゝ)の、花ちりかかる
149、うなじ手に、ひくきささやき、藤の朝を、よしなやこの子、行くは旅の君
150、まどひなくて、經ずする我と、見たまふか、下品(げぼん)の佛(ほとけ)、上品(じゃうぼん)の佛(ほとけ)
151、ながしつる、四つの笹舟(さゝぶね)、紅梅を、載せしがことに、おくれて徃きぬ
152、奧の室(ま)の、うらめづらしき、初聲(うぶごゑ)に、血の氣のぼりし、面(おも)まだ若き
153、人の歌を、くちずさみつつ、夕よる、柱つめたき、秋の雨かな
154、小百合さく、小草がなかに、君まてば、野末にほひて、虹あらはれぬ
155、かしこしと、いとなみいひて、我とこそ、その山坂を、御手に倚らざりし
156、鳥邊野は、御親の御墓、あるところ、清水坂(きよみづざか)に、歌はなかりき
157、御親まつる、墓のしら梅、中(なか)に白く、熊笹(くまざさ)小笹(をざさ)、たそがれそめぬ
158、男(をとこ)きよし、載するに僧の、うらわかき、月にくらしの、蓮(はす)の花船(はなぶね)
159、經にわかき、僧のみこゑの、片明(かたあか)り、月の蓮船(はすぶね)、兄こぎかへる
160、浮葉きると、ぬれし袂の、紅(あけ)のしづく、蓮(はす)にそそぎて、なさけ教へむ
161、こころみに、わかき唇、ふれて見れば、冷かなるよ、しら蓮の露
162、明くる夜の、河はばひろき、嵯峨の欄(らん)、きぬ水色の、二人(ふたり)の夏よ
163、藻の花の、しろきを摘むと、山みづに、文がら濡(ひ)ぢぬ、うすものの袖
164、牛の子を、木かげに立たせ、繪にうつす、君がゆかたに、柿の花ちる
165、誰が筆に、染めし扇ぞ、去年(こぞ)までは、白きをめでし、君にやはあらぬ
166、おもざしの、似たるにまたも、まどひけり、たはぶれますよ、戀の神々(かみ%\)
167、五月雨に、築土(ついじ)くづれし、鳥羽殿(とばどの)の、いぬゐの池に、おもだかさきぬ
168、つばくらの、羽(はね)にしたたる、春雨を、うけてなでむか、わが朝寢髮
169、しら菊を、折りてゑまひし、朝すがた、垣間みしつと、人の書きこし
170、八つ口を、むらさき緒もて、我れとめじ、ひかばあたへむ、三尺の袖
171、春かぜに、櫻花ちる、層塔(そうたふ)の、ゆふべを鳩の、羽(は)に歌そめむ
172、憎からぬ、ねたみもつ子と、ききし子の、垣の山吹、歌うて過ぎぬ
173、おばしまの、その片袖ぞ、おもかりし、鞍馬を西へ、流れし霞
174、ひとたびは、神より更に、にほひ高き、朝をつつみし、練(ねり)の下襲(したがさね)白百合
175、月の夜の、蓮(はす)のおばしま、君うつくし、うら葉の御歌(みうた)、わすれはせずよ
176、たけの髮、をとめ二人(ふたり)に、月うすき、今宵しら蓮(はす)、色まどはずや
177、荷葉(はす)なかば、誰にゆるすの、上(かみ)の御句(みく)ぞ、御袖(みそで)片取(かたと)る、わかき師の君
178、おもひおもふ、今のこころに、分ち分かず、君やしら萩、われやしら百合
179、いづれ君、ふるさと遠き、人の世ぞと、御手はなちしは、昨日(きのふ)の夕
180、三たりをば、世にうらぶれし、はらからと、われ先づ云ひぬ、西の京の宿
181、今宵(こよひ)まくら、神にゆづらぬ、やは手なり、たがはせまさじ、白百合の夢
182、夢にせめて、せめてと思ひ、その神に、小百合の露の、歌ささやきぬ
183、次のまの、あま戸そとくる、われをよびて、秋の夜いかに、長きみぢかき
184、友のあしの、つめたかりきと、旅の朝、わかきわが師に、心なくいいひぬ
185、ひとまおきて、をりをりもれし、君がいき、その夜しら梅、だくと夢みし
186、いはず聽かず、ただうなづきて、別れけり、その日は六日、二人(ふたり)と一人(ひとり)
187、もろ羽かはし、掩ひしそれも、甲斐なかりき、うつくしの友、西の京の秋
188、星となりて、逢はむそれまで、思ひ出でな、一つふすまに、聞きし秋の聲
189、人の世に、才秀でたる、わが友の、名の末かなし、今日(けふ)秋くれぬ
190、星の子の、あまりによわし、袂あげて、魔にも鬼にも、勝(か)たむと云へな
191、百合の花、わざと魔の手に、折らせおきて、拾ひてだかむ、神のこころか
192、しろ百合は、それその人の、高きおもひ、おもわは艷(にほ)ふ、紅芙蓉(べにふよう)とこそ
193、さはいへど、そのひと時よ、まばゆかりき、夏の野しめし、白百合の花
194、友は二十(はたち)、ふたつこしたる、我身なり、ふさはずあらじ、戀と傳へむ
195、その血潮、ふたりは吐かぬ、ちぎりなりき、春を山蓼(やまたで)、たづねますな君
196、秋を三人(みたり)、椎の實なげし、鯉やいづこ、池の朝かぜ、手と手つめたき
197、かの空よ、若狹は北よ、われ載せて、行く雲なきか、西の京の山
198、ひと花は、みづから溪に、もとめきませ、若狹の雪に、堪へむ紅(くれなゐ)
199、『筆のあとに、山居(やまゐ)のさまを、知りたまへ』、人への人の、文さりげなき
200、京はものの、つらきところと、書きさして、見おろしませる、加茂の河しろき
201、恨みまつる、湯におりしまの、一人居(ひとりゐ)を、歌なかりきの、君へだてあり
202、秋の衾(ふすま)、あしたわびし身、うらめしき、つめたきためし、春の京に得ぬ
203、わすれては、谿へおります、うしろ影、ほそき御肩(みかた)に、春の日よわき
204、京の鐘、この日このとき、我れあらず、この日このとき、人と人を泣きぬ
205、琵琶の海、山ごえ行かむ、いざと云ひし、秋よ三人(みたり)よ、人そぞろなりし
206、京の水の、深み見おろし、秋を人の、裂きし小指(をゆび)の、血のあと寒き
207、山蓼の、それよりふかき、くれなゐは、梅よはばかれ、神にとがおはむ
208、魔のまへに、理想(おもひ)くだきし、よわき子と、友のゆふべを、ゆびさしますな
209、魔のわざを、神のさだめと、眼を閉ぢし、友の片手の、花あやぶみぬ
210、歌をかぞへ、その子この子に、ならふなの、まだ寸(すん)ならぬ、白百合の芽よはたち妻
211、露にさめて、瞳(ひとみ)もたぐる、野の色よ、夢のただちの、紫の虹
212、やれ壁に、チチアンが名は、つらかりき、湧く酒がめを、夕に祕めな
213、何となき、ただ一ひらの、雲に見ぬ、みちびきさとし、聖歌(せいか)のにほひ
214、袖にそむき、ふたたびここに、君と見ぬ、別れの別れ、さいへ亂れじ
215、淵の水に、なげし聖書を、又もひろひ、空(そら)仰ぎ泣く、われまどひの子
216、聖書だく子、人の御親(みおや)の、墓に伏して、彌勒(みろく)の名をば、夕に喚びぬ
217、神ここに、力をわびぬ、とき紅(べに)の、にほひ興(きょう)がる、めしひの少女(をとめ)
218、痩せにたれ、かひもなる血ぞ、猶わかき、罪を泣く子と、神よ見ますな
219、おもはずや、夢ねがはずや、若人(わかうど)よ、もゆるくちびる、君に映(うつ)らずや
220、君さらば、巫山(.ざ)の春の、ひと夜妻(よづま)、またの世までは、忘れゐたまへ
221、あまきにがき、味うたがひぬ、我を見て、わかきひじりの、流しにし涙
222、歌に名は、相問(あひと)はざりき、さいへ一夜(ひとよ)、ゑにしのほかの、一夜とおぼすな
223、水の香を、きぬにおほひぬ、わかき神、草には見えぬ、風のゆるぎよ
224、ゆく水を、ざれ言きかす、神の笑まひ、御齒(みは)あざやかに、花の夜あけぬ
225、百合にやる、天(あめ)の小蝶の、みづいろの、翅(はね)にしつけの、糸をとる神
226、ひとつ血の、胸くれなゐの、春のいのち、ひれふすかをり、神もとめよる
227、わがいだく、おもかげ君は、そこに見む、春のゆふべの、黄雲(きぐも)のちぎれ
228、むねの清水、あふれてつひに、濁りけり、君も罪の子、我も罪の子
229、うらわかき、僧よびさます、春の窓、ふり袖ふれて、經くづれきぬ
230、今日(けふ)を知らず、智慧の小石は、問はでありき、星のおきてと、別れにし朝
231、春にがき、貝多羅葉(ばいたらえふ)の、名をききて、堂の夕日に、友の世泣きぬ
232、ふた月を、歌にただある、三本樹(.ぼんぎ)、加茂川千鳥、戀はなき子ぞ
233、わかき子が、乳(ちゝ)の香まじる、春雨に、上羽(うはば)を染めむ、白き鳩われ
234、夕ぐれを、花にかくるる、小狐の、にこ毛にひびく、北嵯峨の鐘
235、見しはそれ、緑の夢の、ほそき夢、ゆるせ旅人、かたり草なき
236、胸と胸と、おもひことなる、松のかぜ、友の頬を吹きぬ、我頬を吹きぬ
237、野茨(のばら)をりて、髮にもかざし、手にもとり、永き日野邊に、君まちわびぬ
238、春を説くな、その朝かぜに、ほころびし、袂だく子に、君こころなき
239、春をおなじ、急瀬(はやせ)さばしる、若鮎の、釣緒(つりを)の細う、くれなゐならぬ
240、みなぞこに、けぶる黒髮、ぬしや誰れ、緋鯉のせなに、梅の花ちる
241、秋を人の、よりし柱に、とがぬあり、梅にことかる、きぬぎぬの歌
242、京の山の、こぞめしら梅、人ふたり、おなじ夢みし、春と知りたまへ
243、なつかしの、湯の香梅が香、山の宿の、板戸によりて、人まちし闇
244、詞にも、歌にもなさじ、わがおもひ、その日そのとき、胸より胸に
245、歌にねて、昨夜(よべ)梶の葉の、作者見ぬ、うつくしかりき、黒髮の色
246、下京(しもぎゃう)や、紅屋(べにや)が門(かど)を、くぐりたる、男かわゆし、春の夜の月
247、枝折戸あり、紅梅さけり、水ゆけり、立つ子われより、笑みうつくしき
248、しら梅は、袖に湯の香は、下のきぬに、かりそめながら、君さらばさらば
249、二十(はた)とせの、我世の幸(さち)は、うすかりき、せめて今見る、夢やすかれな
250、二十(はた)とせの、うすきいのちの、ひびきありと、浪華の夏の、歌に泣きし君
251、かつぐきぬに、その間(ま)の床(とこ)の、梅ぞにくき、昔がたりを、夢に寄する君
252、それ終に、夢にはあらぬ、そら語り、中(なか)のともしび、いつ君きえし
253、君ゆくと、その夕ぐれに、二人して、柱にそめし、白萩の歌
254、なさけあせし、文みて病みて、おとろへて、かくても人を、猶戀ひわたる
255、夜の神の、あともとめよる、しら綾の、鬢の香朝の、春雨の宿
256、その子ここに、夕片笑(ゆふかたゑ)みの、二十(はたち)びと、虹のはしらを、説くに隱れぬ
257、このあした、君があげたる、みどり子の、やがて得む戀、うつくしかれな
258、戀の神に、むくいまつりし、今日の歌、ゑにしの神は、いつ受けまさむ
259、かくてなほ、あくがれますか、眞善美、わが手の花は、くれなゐよ君
260、くろ髮の、千すぢの髮の、みだれ髮、かつおもひみだれ、おもひみだるる
261、そよ理想(りさう)、おもひにうすき、身なればか、朝の露草(つゆくさ)、人ねたかりし
262、とどめあへぬ、そぞろ心は、人しらむ、くづれし牡丹、さぎぬに紅き
263、『あらざりき』、そは後(のち)の人の、つぶやきし、我には永久(とせ)の、うつくしの夢
264、行く春の、一絃(ひとを)一柱(ひとぢ)に、おもひあり、さいへ火(ほ)かげの、わが髮ながき
265、のらす神、あふぎ見するに、瞼(まぶた)おもき、わが世の闇の、夢の小夜中(さよなか)
266、そのわかき、羊は誰に、似たるぞの、瞳(ひとみ)の御色(みいろ)、野は夕なりし
267、あえかなる、白きうすもの、まなじりに、火かげの榮(はえ)の、咀(のろ)はしき君
268、紅梅に、そぞろゆきたる、京の山、叔母の尼すむ、寺は訪はざりし
269、くさぐさの、色ある花に、よそはれし、棺(ひつぎ)のなかの、友うつくしき
270、五つとせは、夢にあらずよ、みそなはせ、春に色なき、草ながき里
271、すげ笠に、あるべき歌と、強ひゆきぬ、若葉よ薫(かを)れ、生駒(いこま)葛城(かつらぎ)
272、裾たるる、紫ひくき、根なし雲、牡丹が夢の、眞晝(まひる)しづけき
273、紫の、わが世の戀の、あさぼらけ、諸手(もろで)のかをり、追風(おひかぜ)ながき
274、このおもひ、眞晝の夢と、誰か云ふ、酒のかをりの、なつかしき春
275、みどりなるは、學びの宮と、さす神に、いらへまつらで、摘む夕すみれ
276、そら鳴りの、夜ごとのくせぞ、狂(くる)ほしき、汝(なれ)よ小琴(をごと)よ、片袖かさむ(琴に)
277、ぬしえらばず、胸にふれむの、行く春の、小琴とおぼせ、眉やはき君(琴のいらへて)
278、去年(こぞ)ゆきし、姉の名よびて、夕ぐれの、戸に立つ人を、あはれと思ひぬ
279、十九(つづ)のわれ、すでに菫を、白く見し、水はやつれぬ、はかなかるべき
280、ひと年を、この子のすがた、絹に成らず、畫の筆すてて、詩にかへし君
281、白きちりぬ、紅きくづれぬ、床(ゆか)の牡丹、五山(.ざん)の僧の、口おそろしき
282、今日の身に、我をさそひし、中(なか)の姉、小町(こまち)のはてを、祈れと去(い)にぬ
283、秋もろし、春みじかしを、まどひなく、説く子ありなば、我れ道きかむ
284、さそひ入れて、さらばと我手、はらひます、御衣(みけし)のにほひ、闇(やみ)やはらかき
285、病みてこもる、山の御堂に、春くれぬ、今日(けふ)文ながき、繪筆とる君
286、河ぞひの、門(かど)小雨ふる、柳はら、二人(ふたり)の一人(ひとり)、めす馬しろき
287、歌は斯くよ、血ぞゆらぎしと、語る友に、笑まひを見せし、さびしき思
288、とおもへばぞ、垣をこえたる、山ひつじ、とおもへばぞの、花よわりなの
289、庭下駄に、水をあやぶむ、花あやめ、鋏(はさみ)にたらぬ、力をわびぬ
290、柳ぬれし、今朝(けさ)門(かど)すぐる、文づかひ、青貝(あをがひ)ずりの、その箱ほそき
291、『いまさらに、そは春せまき、御胸なり』、われ眼をとぢて、御手にすがりぬ
292、その友は、もだえのはてに、歌を見ぬ、われを召す神、きぬ薄黒き
293、そのなさけ、かけますな君、罪の子が、狂ひのはてを、見むと云ひたまへ
294、いさめますか、道ときますか、さとしますか、宿世のよそに、血を召しませな
295、もろかりし、はかなかりしと、春のうた、焚くにこの子の、血ぞあまり若き
296、夏やせの、我やねたみの、二十妻(はたちづま)、里居(さとゐ)の夏に、京を説く君
297、こもり居に、集(しう)の歌ぬく、ねたみ妻、五月(さつき)のやどの、二人(ふたり)うつくしき舞姫
298、人に侍る、大堰(おほゐ)の水の、おばしまに、わかきうれひの、袂の長き
299、くれなゐの、扇に惜しき、涙なりき、嵯峨のみぢか夜、曉(あけ)寒かりし
300、朝を細き、雨に小鼓(こづつみ)、おほひゆく、だんだら染の、袖ながき君
301、人にそひて、今日(けふ)京の子の、歌をきく、祇園(ぎをん)清水(きよみづ)、春の山まろき
302、くれなゐの、襟にはさめる、舞扇(まひあふぎ)、醉のすさびの、あととめられな
303、桃われの、前髮ゆへる、くみ紐や、ときいろなるが、ことたらぬかな
304、淺黄地に、扇ながしの、都染(みやこぞめ)、九尺のしごき、袖よりも長き
305、四條橋(..ばし)、おしろいあつき、舞姫の、ぬかささやかに、撲つ夕あられ
306、さしかざす、小傘(をがさ)に紅き、揚羽蝶(あげはてふ)、小褄とる手に、雪ちりかかる
307、舞姫の、かりね姿よ、うつくしき、朝京(.きゃう)くだる、春の川舟
308、紅梅に、金糸のぬひの、菊づくし、五枚かさねし、襟なつかしき
309、舞ぎぬの、袂に聲を、おほひけり、ここのみ闇の、春の廻廊(わたどの)
310、まこと人を、打たれむものか、ふりあげし、袂このまま、夜をなに舞はむ
311、三たび四たび、おなじしらべの、京の四季、おとどの君を、つらしと思ひぬ
312、あでびとの、御膝(みひざ)へおぞや、おとしけり、行幸源氏(みゆきげんじ)の、卷繪(まきゑ)の小櫛(をぐし)
313、しろがねの、舞の花櫛、おもくして、かへす袂の、ままならぬかな
314、四とせまへ、鼓うつ手に、そそがせし、涙のぬしに、逢はれむ我か
315、おほづつみ、抱(かゝ)へかねたる、その頃よ、美(よ)き衣(きぬ)きるを、うれしと思ひし
316、われなれぬ、千鳥なく夜の、川かぜに、鼓拍子(つづみびゃうし)を、とりて行くまで
317、いもうとの、琴には惜しき、おぼろ夜よ、京の子こひし、鼓のひと手
318、よそほひし、京の子すゑて、絹(きぬ)のべて、繪の具とく夜を、春の雨ふる
319、そのなさけ、今日舞姫(..まひひめ)に、強(し)ひますか、西の秀才(すさい)が、眉よやつれし春思
320、いとせめて、もゆるがままに、もえしめよ、斯くぞ覺ゆる、暮れて行く春
321、春みじかし、何に不滅(ふめつ)の、命ぞと、ちからある乳を、手にさぐらせぬ
322、夜(よ)の室(むろ)に、繪の具かぎよる、懸想(けさう)の子、太古の神に、春似たらずや
323、そのはてに、のこるは何と、問ふな説くな、友よ歌あれ、終(つひ)の十字架
324、わかき子が、胸の小琴の、音(ね)を知るや、旅ねの君よ、たまくらかさむ
325、松かげに、またも相見る、君とわれ、ゑにしの神を、にくしとおぼすな
326、きのふをば、千とせの前の、世とも思ひ、御手なほ肩に、有りとも思ふ
327、歌は君、醉ひのすさびと、墨ひかば、さても消ゆべし、さても消ぬべし
328、神よとはに、わかきまどひの、あやまちと、この子の悔ゆる、歌ききますな
329、湯あがりを、御風(みかぜ)めすなの、わが上衣(うはぎ)、ゑんじむらさき、人うつくしき
330、さればとて、おもにうすぎぬ、かつぎなれず、春ゆるしませ、中(なか)の小屏風
331、しら綾に、鬢の香しみし、夜着(よぎ)の襟、そむるに歌の、なきにしもあらず
332、夕ぐれの、霧のまがひも、さとしなりき、消えしともしび、神うつくしき
333、もゆる口に、なにを含まむ、ぬれといひし、人のをゆびの、血は涸れはてぬ
334、人の子の、戀をもとむる、唇に、毒ある蜜を、われぬらむ願ひ
335、ここに三とせ、人の名を見ず、その詩よます、過すはよわき、よわき心なり
336、梅の溪の、靄(もや)くれなゐの、朝すがた、山うつくしき、我れうつくしき
337、ぬしや誰れ、ねぶの木かげの、釣床(つりどこ)の、網(あみ)のめもるる、水色のきぬ
338、歌に聲の、うつくしかりし、旅人の、行手の村の、桃しろかれな
339、朝の雨に、つばさしめりし、鴬を、打たむの袖の、さだすぎし君
340、御手づからの、水にうがひし、それよ朝、かりし紅筆(べにふで)、歌かきてやまむ
341、春寒(はるさむ)の、ふた日を京の、山ごもり、梅にふさはぬ、わが髮の亂れ
342、歌筆を、紅(べに)にかりたる、尖(さき)凍(い)てぬ、西のみやこの、春さむき朝
343、春の宵を、ちひさく撞きて、鐘を下りぬ、二十七段(...だん)、堂のきざはし
344、手をひたし、水は昔に、かはらずと、さけぶ子の戀、われあやぶみぬ
345、病むわれに、その子五つの、をとこなり、つたなの笛を、あはれと聞く夜
346、とおもひて、ぬひし春着の、袖うらに、うらみの歌は、書かさせますな
347、かくて果つる、我世さびしと、泣くは誰ぞ、しろ桔梗さく、伽藍(がらん)のうらに
348、人とわれ、おなじ十九の、おもかげを、うつせし水よ、石津川の流れ
349、卯の衣を、小傘(をがさ)にそへて、褄とりて、五月雨わぶる、村はづれかな
350、大御油(おほみあぶら)、ひひなの殿(との)に、まゐらする、わが前髮に、桃の花ちる
351、夏花に、多くの戀を、ゆるせしを、神悔い泣くか、枯野ふく風
352、道を云はず、後を思はず、名を問はず、ここに戀ひ戀ふ、君と我と見る
353、魔に向ふ、つるぎの束(つか)を、にぎるには、細き五つの、御指(みゆび)と吸ひぬ
354、消えむものか、歌よむ人の、夢とそは、そは夢ならむ、さて消えむものか
355、戀と云はじ、そのまぼろしの、あまき夢、詩人(しじん)もありき、畫だくみもありき
356、君さけぶ、道のひかりの、遠(をち)を見ずや、おなじ紅(あけ)なる、靄(もや)たちのぼる
357、かたちの子、春の子血の子、ほのほの子、いまを自在の、翅(はね)なからずや
358、ふとそれより、花に色なき、春となりぬ、疑ひの神、まどはしの神
359、うしや我れ、さむるさだめの、夢を永久(とは)に、さめなと祈る、人の子におちぬ
360、わかき子が、髮のしづくの、草に凝りて、蝶とうまれし、ここ春の國
361、結願(けちぐゎん)の、ゆふべの雨に、花ぞ黒き、五尺こちたき、髮かるうなりぬ
362、罪おほき、男こらせと、肌きよく、黒髮ながく、つくられし我れ
363、そとぬけて、その靄(もや)おちて、人を見ず、夕の鐘の、かたへさびしき
364、春の小川、うれしの夢に、人遠き、朝を繪の具の、紅き流さむ
365、もろき虹の、七いろ戀ふる、ちさき者よ、めでたからずや、魔神(まがみ)の翼(つばさ)
366、醉に泣く、をとめに見ませ、春の神、男の舌の、なにかするどき
367、その酒の、濃きあぢはひを、歌ふべき、身なり君なり、春のおもひ子
368、花にそむき、ダビデの歌を、誦せむには、あまりに若き、我身とぞ思ふ
369、みかへりの、それはた更に、つらかりき、闇におぼめく、山吹垣根
370、ゆく水に、柳に春ぞ、なつかしき、思はれ人に、外ならぬ我れ
371、その夜かの夜、よわきためいき、せまりし夜、琴にかぞふる、三とせは長き
372、きけな神、戀はすみれの、紫に、ゆふべの春の、讚嘆(さんたん)のこゑ
373、病みませる、うなじに纖(ほそ)き、かひな捲きて、熱にかわける、御口(みくち)を吸はむ
374、天の川、そひねの床の、とばりごしに、星のわかれを、すかし見るかな
375、染めてよと、君がみもとへ、おくりやりし、扇かへらず、風秋(.あき)となりぬ
376、たまはりし、うす紫の、名なし草、うすきゆかりを、歎きつつ死なむ
377、うき身朝を、はなれがたなの、細柱(ほそばしら)、たまはる梅の、歌ことたらぬ
378、さおぼさずや、宵の火かげの、長き歌、かたみに詞、あまり多かりき
379、その歌を、誦(ず)します聲に、さめし朝、なでよの櫛の、人はづかしき
380、明日(あす)を思ひ、明日の今おもひ、宿の戸に、倚る子やよわき、梅暮れそめぬ
381、金色(こんじき)の、翅(はね)あるわらは、躑躅(つつじ)くはへ、小舟(をぶね)こぎくる、うつくしき川
382、月こよみ、いたみの眉は、てらさざるに、琵琶だく人の、年とひますな
383、戀をわれ、もろしと知りぬ、別れかね、おさへし袂、風の吹きし時
384、星の世の、むくのしらぎぬ、かばかりに、染めしは誰の、とがとおぼすぞ
385、わかき子の、こがれよりしは、斧のにほひ、美妙(みめう)の御相(みさう)、けふ身にしみぬ
386、清し高し、さはいへさびし、白銀(しろがね)の、しろきほのほと、人の集(しう)見し(醉茗の君の詩集に)
387、雁(かり)よそよ、わがさびしきは、南なり、のこりの戀の、よしなき朝夕(あさゆふ)
388、來し秋の、何に似たるの、わが命、せましちひさき、萩よ紫苑よ
389、柳あをき、堤にいつか、立つや我れ、水はさばかり、流とからず
390、幸(さち)おはせ、羽やはらかき、鳩とらへ、罪ただしたる、高き君たち
391、打ちますに、しろがねの鞭、うつくしき、愚かよ泣くか、名にうとき羊(ひつじ)
392、誰に似むの、おもひ問はれし、春ひねもす、やは肌もゆる、血のけに泣きぬ
393、庫裏(くり)の藤に、春ゆく宵の、ものぐるひ、御經(みきゃう)のいのち、うつつをかしき
394、春の虹、ねりのくけ紐、たぐります、羞(はぢろ)ひ神(がみ)の、曉(あけ)のかをりよ
395、室(むろ)の神に、御肩(みかた)かけつつ、ひれふしぬ、ゑんじなればの、宵の一襲(ひとかさね)
396、天(あめ)の才(さい)、ここににほひの、美しき、春をゆふべに、集(しう)ゆるさずや
397、消えて凝(こ)りて、石と成らむの、白桔梗(しろぎきゃう)、秋の野生(のおひ)の、趣味(しゅみ)さて問ふな
398、歌の手に、葡萄をぬすむ、子の髮の、やはらかいかな、虹のあさあけ
399、そと祕めし、春のゆふべの、ちさき夢、はぐれさせつる、十三絃よ