阿部一族
森鴎外
従(じゅ)四位下(いのげ)左近衛少将(さこんえのしょうしょう)兼越中守(えっちゅうのかみ)細川忠利(ほそかわただとし)は、寛永十八年辛巳(しんし)の春、よそよりは早く咲く領地肥後国(ひごのくに)の花を見すてて、五十四万国の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤(さんきん)の途(みち)に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆(いっき)のとき賊将天草(あまくさ)四郎時貞(ときさだ)を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)、阿部豊後守(あべぶんごのかみ)、阿部対馬守(あべつしまのかみ)の連名の沙汰書(さたしょ)を作らせ、針医以策(いさく)というものを、京都から下向(げこう)させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門(そがまたざえもん)という侍(さむらい)を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重(ていちょう)をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸(やしき)に添地(そえち)を賜わったり、鷹狩(たかがり)の鶴(つる)を下されたり、ふだん慇懃(いんぎん)を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤(もっと)もである。
将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の館(やかた)では忠利の病が革(すみや)かになって、とうとう三月十七日申(さる)の刻に五十六歳で亡(な)くなった。奥方は小笠原(おがさわら)兵部大輔(ひょうぶたゆう)秀政(ひでまさ)の娘を将軍が養女にして妻(めあわ)せた人で、今年四十五歳になっている。名をお千(せん)の方(かた)という。嫡子(ちゃくし)六丸は六年前に元服して将軍家から光(みつ)の字を賜わり、光貞(みつさだ)と名のって、従四位下侍従(じじゅう)兼肥後守(ひごのかみ)にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で遠江国(とおとうみのくに)浜松まで帰ったが、訃音(ふいん)を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚(みつひさ)と改めた。二男鶴千代(つるちよ)は小さいときから立田山の泰勝寺(たいしょうじ)にやってある。京都妙心寺出身の大淵和尚(たいえんおしょう)の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条大膳(だいぜん)の養子になっている。女子は二人ある。長女藤姫(ふじひめ)は松平周防守(すおうのかみ)忠弘(ただひろ)の奥方になっている。二女竹姫はのちに有吉(ありよし)頼母(たのも)英長(ひでなが)の妻になる人である。弟には忠利が三斎(さんさい)の三男に生まれたので、四男中務(なかつかさ)大輔(たゆう)立孝(たつたか)、五男刑部(ぎょうぶ)興孝(おきたか)、六男長岡式部寄之(よりゆき)の三人がある。妹(いもと)には稲葉一通(かずみち)に嫁した多羅姫(たらひめ)、烏丸(からすまる)中納言(ちゅうなごん)光賢(みつかた)に嫁した万姫(まんひめ)がある。この万姫の腹に生まれた禰々姫(ねねひめ)が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。隠居三斎宗立(そうりゅう)もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎(なげ)いたのと違って、熊本の館(やかた)にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江戸への注進には六島少吉(むつしましょうきち)、津田六左衛門の二人が立った。
三月二十四日には初七日(しょなぬか)の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板(とこいた)を引き放って、土中に置いてあった棺(かん)を舁(か)き上げて、江戸からの指図(さしず)によって、飽田郡(あきたごおり)春日村(かすがむら)岫雲院(しゅううんいん)で遺骸(いがい)を
荼※(だび)にして、高麗門(こうらいもん)の外の山に葬った。この霊屋(みたまや)の下に、翌年の冬になって、護国山(ごこくざん)妙解寺(みょうげじ)が建立(こんりゅう)せられて、江戸品川東海寺から沢庵和尚(たくあんおしょう)の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の臨流庵(りんりゅうあん)に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。忠利の法号は妙解院殿(みょうげいんでん)台雲宗伍大居士(たいうんそうごだいこじ)とつけられた。
岫雲院で
荼※(だび)になったのは、忠利の遺言によったのである。いつのことであったか、忠利が方目狩(ばんがり)に出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。そのとき忠利はふと腮髯(あごひげ)の伸びているのに気がついて住持に剃刀(かみそり)はないかと言った。住持が盥(たらい)に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌(きげん)よく児小姓(こごしょう)に髯を剃(そ)らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者(もうじゃ)の頭をたくさん剃ったであろうな」と言った。住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。このときから忠利は岫雲院の住持と心安くなっていたので、
荼※所(だびしょ)をこの寺にきめたのである。ちょうど
荼※の最中であった。柩(ひつぎ)の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」と言う声がした。境内(けいだい)の杉(すぎ)の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒(いづつ)の上に笠(かさ)のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴(くちばし)と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈(か)け出して、井の端(はた)に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶(しだ)の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は鷹匠衆(たかじょうしゅう)であった。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明(ありあけ)、明石(あかし)という二羽の鷹であった。そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も殉死(じゅんし)したのか」とささやく声が聞えた。それは殿様がお隠れになった当日から一昨日(おとつい)までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日(きのう)も一人切腹したので、家中誰(かちゅうたれ)一人(にん)殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物(えもの)を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿(せんさく)しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛(ちょうあい)なされたもので、それが
荼※の当日に、しかもお
荼※所の岫雲院の井戸にはいって死んだというだけの事実を見て、鷹が殉死したのだという判断をするには十分であった。それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである。
中陰の四十九日が五月五日に済んだ。これまでは宗玄をはじめとして、既西堂(きせいどう)、金両堂(こんりょうどう)、天授庵(てんじゅあん)、聴松院(ちょうしょういん)、不二庵(ふじあん)等の僧侶(そうりょ)が勤行(ごんぎょう)をしていたのである。さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁(ゆかり)もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年簷(のき)に葺(ふ)く端午の菖蒲(しょうぶ)も摘(つ)まず、ましてや初幟(はつのぼり)の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。
殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟(おきて)が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。泰平(たいへい)の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天(しで)の山三途(さんず)の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。その許しもないのに死んでは、それは犬死(いぬじに)である。武士は名聞(みょうもん)が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死(うちじに)をするのは立派ではあるが、軍令にそむいて抜駈(ぬけが)けをして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じことで、お許しのないに殉死しては、これも犬死である。たまにそういう人で犬死にならないのは、値遇(ちぐう)を得た君臣の間に黙契があって、お許しはなくてもお許しがあったのと変らぬのである。仏涅槃(ぶつねはん)ののちに起った大乗の教えは、仏(ほとけ)のお許しはなかったが、過現未(かげんみ)を通じて知らぬことのない仏は、そういう教えが出て来るものだと知って懸許(けんきょ)しておいたものだとしてある。お許しがないのに殉死の出来るのは、金口(こんぐ)で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。
そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎元続(もとつぐ)が願った手段などがよい例である。長十郎は平生(へいぜい)忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。もはや本復は覚束(おぼつか)ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期(まつご)が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物(かけもの)を枕もとにかけてくれ」と言いつけておいた。三月十七日に容態が次第に重くなって、忠利が「あの懸物をかけえ」と言った。長十郎はそれをかけた。忠利はそれを一目見て、しばらく瞑目(めいもく)していた。それから忠利が「足がだるい」と言った。長十郎は掻巻(かいまき)の裾(すそ)をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。
「長十郎お願いがござりまする」
「なんじゃ」
「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎奴(め)にお供を仰せつけられますように」
こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額(ひたい)に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。
「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇(わき)を向いた。
「どうぞそうおっしゃらずに」長十郎はまた忠利の足を戴いた。
「いかんいかん」顔をそむけたままで言った。
列座の者の中から、「弱輩の身をもって推参じゃ、控えたらよかろう」と言ったものがある。長十郎は当年十七歳である。
「どうぞ」咽(のど)につかえたような声で言って、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に当てて放さずにいた。
「情の剛(こわ)い奴(やつ)じゃな」声はおこって叱(しか)るようであったが、忠利はこの詞(ことば)とともに二度うなずいた。
長十郎は「はっ」と言って、両手で忠利の足を抱(かか)えたまま、床の背後(うしろ)に俯伏(うつぶ)して、しばらく動かずにいた。そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛(ゆる)みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳(びんごたたみ)の上に涙のこぼれるのも知らなかった。
長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近(そばちか)く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎(とが)めもありそうな失錯(しっさく)をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過(あやま)ちを償(つぐの)わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重(おも)ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖(おそ)れる念は微塵(みじん)もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望(がんもう)は、何物の障礙(しょうがい)をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。
しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己(おのれ)は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。
四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞(いとまご)いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅(せがれ)が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。よめはすぐに起(た)って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を綺麗(きれい)に撫(な)でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、真面目(まじめ)な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の縁(ふち)が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、心地(ここち)よげに杯を重ねた。
しばらくして長十郎が母に言った。「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾(いびき)をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。
家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩(うまや)の方からも笑い声なぞは聞こえない。
母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵(つりしのぶ)が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈(たけ)の高い石の頂(いただき)を掘りくぼめた手水鉢(ちょうずばち)がある。その上に伏せてある捲物(まきもの)の柄杓(ひしゃく)に、やんまが一疋(ぴき)止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
一時(ひととき)立つ。二時(ふたとき)立つ。もう午(ひる)を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑(しゅうとめ)が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
そのときかねて介錯(かいしゃく)を頼まれていた関小平次が来た。姑はよめを呼んだ。よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」よめはこう言って、すぐに起(た)って夫を起しに往った。
夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞(ことば)をかけかねていたのである。
熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
長十郎は目をさまさない。
女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言って臂(ひじ)を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは午(ひる)になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬(ちゃづけ)でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母(か)あさまにも申し上げてくれ」
武士はいざというときには飽食(ほうしょく)はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午(ひる)になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形(かた)ばかりではあるが、一家(いっけ)四人のものがふだんのように膳(ぜん)に向かって、午の食事をした。
長十郎は心静かに支度をして、関を連れて菩提所(ぼだいしょ)東光院へ腹を切りに往った。
長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を子息光尚(みつひさ)の保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻(ざんこく)だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を割(さ)くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。これに反してもし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。家中(かちゅう)一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者(ひきょうもの)としてともに歯(よわい)せぬであろう。それだけならば、彼らもあるいは忍んで命を光尚に捧げるときの来るのを待つかも知れない。しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦にも増したせつない思いをしながら、忠利は「許す」と言ったのである。
殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情世故(せいこ)にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。生(しょう)あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。嫡子(ちゃくし)光尚の周囲にいる少壮者(わかもの)どもから見れば、自分の任用している老成人(としより)らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨(うら)みをも買っていよう。少くも娼嫉(そねみ)の的になっているには違いない。そうしてみれば、強(し)いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉(いしゃ)を得たような心持ちになった。
殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門直次(なおつぐ)、大塚喜兵衛種次(たねつぐ)、内藤長十郎元続(もとつぐ)、太田小十郎正信、原田十次郎之直(ゆきなお)、宗像(むなかた)加兵衛景定(かげさだ)、同吉太夫(きちだゆう)景好(かげよし)、橋谷市蔵重次(しげつぐ)、井原十三郎吉正(よしまさ)、田中意徳、本庄喜助重正(しげまさ)、伊藤太左衛門方高(まさたか)、右田因幡統安(いなばむねやす)、野田喜兵衛重綱(しげつな)、津崎五助長季(ながすえ)、小林理右衛門行秀(ゆきひで)、林与左衛門正定(まささだ)、宮永勝左衛門宗佑(むねすけ)の人々である。
寺本が先祖は尾張国(おわりのくに)寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。太郎の子内膳正(ないぜんのしょう)は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐(うえもんのすけ)、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤嘉明(よしあき)に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪籠城(ろうじょう)のとき、後藤基次(もとつぐ)の下で働いたことがある。細川家に召(め)し抱(かか)えられてから、千石取って、鉄砲五十挺(ちょう)の頭(かしら)になっていた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。藤本猪左衛門(いざえもん)が介錯(かいしゃく)した。大塚は百五十石取りの横目役(よこめやく)である。四月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衛門であった。内藤がことは前に言った。太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。忠広が封(ほう)を除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが流浪(るろう)した。小十郎は源左衛門の二男で児小姓(こごしょう)に召し出された者である。百五十石取っていた。殉死の先登(せんとう)はこの人で、三月十七日に春日寺(かすがでら)で切腹した。十八歳である。介錯は門司(もじ)源兵衛がした。原田は百五十石取りで、お側(そば)に勤めていた。四月二十六日に切腹した。介錯は鎌田(かまだ)源太夫がした。宗像加兵衛、同吉太夫(きちだゆう)の兄弟は、宗像中納言氏貞(うじさだ)の後裔(こうえい)で、親清兵衛景延(かげのぶ)の代に召し出された。兄弟いずれも二百石取りである。五月二日に兄は流長院、弟は蓮政寺(れんしょうじ)で切腹した。兄の介錯は高田十兵衛、弟のは村上市右衛門がした。橋谷は出雲国(いずものくに)の人で、尼子(あまこ)の末流(ばつりゅう)である。十四歳のとき忠利に召し出されて、知行百石の側役(そばやく)を勤め、食事の毒味をしていた。忠利は病が重くなってから、橋谷の膝(ひざ)を枕にして寝たこともある。四月二十六日に西岸寺で切腹した。ちょうど腹を切ろうとすると、城の太鼓がかすかに聞えた。橋谷はついて来ていた家隷(けらい)に、外へ出て何時(なんどき)か聞いて来いと言った。家隷は帰って、「しまいの四つだけは聞きましたが、総体の桴数(ばちかず)はわかりません」と言った。橋谷をはじめとして、一座の者が微笑(ほほえ)んだ。橋谷は「最期(さいご)によう笑わせてくれた」と言って、家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村甚太夫(じんだゆう)が介錯した。井原は切米(きりまい)三人扶持(ふち)十石を取っていた。切腹したとき阿部弥一右衛門(やいちえもん)の家隷林左兵衛が介錯した。田中は阿菊物語(おきくものがたり)を世に残したお菊が孫で、忠利が愛宕山(あたごさん)へ学問に往ったときの幼な友達であった。忠利がそのころ出家しようとしたのを、ひそかに諫(いさ)めたことがある。のちに知行二百石の側役を勤め、算術が達者で用に立った。老年になってからは、君前で頭巾(ずきん)をかむったまま安座することを免(ゆる)されていた。当代に追腹(おいばら)を願っても許されぬので、六月十九日に小脇差(こわきざし)を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は丹後国(たんごのくに)の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き本庄久右衛門(ほんじょうきゅうえもん)が召使っていた。仲津で狼藉者(ろうぜきもの)を取り押さえて、五人扶持十五石の切米取(きりまいと)りにせられた。本庄を名のったのもそのときからである。四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役(おくおなんどやく)を勤めた切米取りである。四月二十六日に切腹した。介錯は河喜多(かわきた)八助がした。右田は大伴家(おおともけ)の浪人で、忠利に知行百石で召し抱えられた。四月二十七日に自宅で切腹した。六十四歳である。松野右京の家隷田原勘兵衛が介錯した。野田は天草の家老野田美濃(みの)の倅(せがれ)で、切米取りに召し出された。四月二十六日に源覚寺で切腹した。介錯は恵良(えら)半衛門がした。津崎のことは別に書く。小林は二人扶持十石の切米取りである。切腹のとき、高野勘右衛門が介錯した。林は南郷下田村の百姓であったのを、忠利が十人扶持十五石に召し出して、花畑の館(やかた)の庭方(にわかた)にした。四月二十六日に仏巌寺(ぶつがんじ)で切腹した。介錯は仲光(なかみつ)半助がした。宮永は二人扶持十石の台所役人で、先代に殉死を願った最初の男であった。四月二十六日に浄照寺(じょうしょうじ)で切腹した。介錯は吉村嘉右衛門(かえもん)がした。この人々の中にはそれぞれの家の菩提所(ぼだいしょ)に葬られたのもあるが、また高麗門外(こうらいもんがい)の山中にある霊屋(おたまや)のそばに葬られたのもある。
切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。
五助は二人扶持六石の切米取りで、忠利の犬牽(いぬひ)きである。いつも鷹狩の供をして野方(のかた)で忠利の気に入っていた。主君にねだるようにして、殉死のお許しは受けたが、家老たちは皆言った。「ほかの方々は高禄(こうろく)を賜わって、栄耀(えよう)をしたのに、そちは殿様のお犬牽きではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない誉(ほま)れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」と言った。
五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽(ひ)いてお供をした犬を連れて、追廻田畑(おいまわしたはた)の高琳寺(こうりんじ)へ出かけた。女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。
津崎の家では往生院(おうじょういん)を菩提所にしていたが、往生院は上(かみ)のご由緒(ゆいしょ)のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所(しにどころ)ときめたのである。五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野縫殿助(ぬいのすけ)が先に来て待っていた。五助は肩にかけた浅葱(あさぎ)の嚢(ふくろ)をおろしてその中から飯行李(めしこうり)を出した。蓋(ふた)をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。
「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司(げす)ではあるが、御扶持(ごふち)を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院(しゅううんいん)で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」
こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。
「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。
犬は一声(ひとこえ)鳴いて尾をふった。
「よい。そんなら不便(ふびん)じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。
五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸(やしき)で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉(かな)」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。
もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座(あんざ)して肌(はだ)をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手(さかて)に持って、「お鷹匠衆(たかじょうしゅう)はどうなさりましたな、お犬牽(いぬひ)きは只今(ただいま)参りますぞ」と高声(たかごえ)に言って、一声快(こころ)よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後(うしろ)から首を打った。
五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々触組(ふれぐみ)で奉公していた。
忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門通信(みちのぶ)というものがあった。初めは明石氏(あかしうじ)で、幼名を猪之助(いのすけ)といった。はやくから忠利の側近(そばちか)く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜伽(よとぎ)に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。しかしどうしても忠利は許さない。「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚(みつひさ)に奉公してくれい」と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。
一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご膳(ぜん)を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかというと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。
弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。しかしすることはいつも肯綮(こうけい)にあたっていて、間然すべきところがない。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見ると、反対したくなったのだが、のちにはこの男の意地で勤めるのを知って憎いと思った。憎いと思いながら、聡明(そうめい)な忠利はなぜ弥一右衛門がそうなったかと回想してみて、それは自分がしむけたのだということに気がついた。そして自分の反対する癖を改めようと思っていながら、月がかさなり年がかさなるにしたがって、それが次第に改めにくくなった。
人には誰(た)が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿(せんさく)してみると、どうかすると捕捉(ほそく)するほどの拠(よ)りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。それは親しい友達の少いのでわかる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借(か)してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙(ひま)がない」と言って我(が)を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。
とにかく弥一右衛門は何度願っても殉死の許しを得ないでいるうちに、忠利は亡くなった。亡くなる少し前に、「弥一右衛門奴(め)はお願いと申すことを申したことはござりません、これが生涯唯一(しょうがいゆいいつ)のお願いでござります」と言って、じっと忠利の顔を見ていたが、忠利もじっと顔を見返して、「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」と言い放った。
弥一右衛門はつくづく考えて決心した。自分の身分で、この場合に殉死せずに生き残って、家中のものに顔を合わせているということは、百人が百人所詮(しょせん)出来ぬことと思うだろう。犬死と知って切腹するか、浪人して熊本を去るかのほか、しかたがあるまい。だがおれはおれだ。よいわ。武士は妾(めかけ)とは違う。主(しゅ)の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずはない。こう思って一日一日と例のごとくに勤めていた。
そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。熊本中ただその噂(うわさ)ばかりである。誰はなんと言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。そっと横から見たり、背後(うしろ)から見たりするのがわかる。不快でたまらない。それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、昂然(こうぜん)と項(うなじ)をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いていた。
二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪(ひょうたん)に油でも塗って切ればよいに」というのである。弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。悪口が言いたくばなんとも言うがよい。しかしこの弥一右衛門を竪(たて)から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。
弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子権兵衛(ごんべえ)、二男弥五兵衛(やごべえ)、つぎにまだ前髪のある五男七之丞(しちのじょう)の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。権兵衛は幼名権十郎といって、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石をもらっている。父に劣らぬ若者である。このたびのことについては、ただ一度父に「お許しは出ませなんだか」と問うた。父は「うん、出んぞ」と言った。そのほか二人の間にはなんの詞(ことば)も交わされなかった。親子は心の底まで知り抜いているので、何も言うにはおよばぬのであった。
まもなく二張(ふたはり)の提燈(ちょうちん)が門のうちにはいった。三男市太夫(いちだゆう)、四男五太夫(ごだゆう)の二人がほとんど同時に玄関に来て、雨具を脱いで座敷に通った。中陰の翌日からじめじめとした雨になって、五月闇(さつきやみ)の空が晴れずにいるのである。
障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ燭台(しょくだい)の火はゆらめいている。螢(ほたる)が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中(かちゅう)一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」
市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家しているが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、御代替りになって人に羨(うらや)まれる一人である。市太夫が膝(ひざ)を進めた。「なるほど。ようわかりました。実は傍輩(ほうばい)が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず揃(そろ)うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その詞(ことば)が何か意味ありげで歯がゆうござりました」
父弥一右衛門は笑った。「そうであろう。目の先ばかり見える近眼(ちかめ)どもを相手にするな。そこでその死なぬはずのおれが死んだら、お許しのなかったおれの子じゃというて、おぬしたちを侮(あなど)るものもあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。しょうことがない。恥を受けるときは一しょに受けい。兄弟喧嘩(げんか)をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」
こう言っておいて、弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界(きょうがい)を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。
「兄(あに)き」と二男弥五兵衛が嫡子に言った。「兄弟喧嘩をするなと、お父(と)っさんは言いおいた。それには誰も異存はあるまい。おれは島原で持場が悪うて、知行ももらわずにいるから、これからはおぬしが厄介(やっかい)になるじゃろう。じゃが何事があっても、おぬしが手にたしかな槍(やり)一本はあるというものじゃ。そう思うていてくれい」
「知れたことじゃ。どうなることか知れぬが、おれがもらう知行はおぬしがもらうも同じじゃ」こう言ったぎり権兵衛は腕組みをして顔をしかめた。
「そうじゃ。どうなることか知れぬ。追腹はお許しの出た殉死とは違うなぞという奴(やつ)があろうて」こう言ったのは四男の五太夫である。
「それは目に見えておる。どういう目に逢(お)うても」こう言いさして三男市太夫は権兵衛の顔を見た。「どういう目に逢うても、兄弟離れ離れに相手にならずに、固まって行こうぞ」
「うん」と権兵衛は言ったが、打ち解けた様子もない。権兵衛は弟どもを心にいたわってはいるが、やさしく物をいわれぬ男である。それに何事も一人で考えて、一人でしたがる。相談というものをめったにしない。それで弥五兵衛も市太夫も念を押したのである。
「兄(に)いさま方が揃うておいでなさるから、お父っさんの悪口は、うかと言われますまい」これは前髪の七之丞が口から出た。女のような声ではあったが、それに強い信念が籠(こも)っていたので、一座のものの胸を、暗黒な前途を照らす光明のように照らした。
「どりゃ。おっ母さんに言うて、女子(おなご)たちに暇乞(いとまご)いをさしょうか」こう言って権兵衛が席を起った。
従四位下侍従兼肥後守光尚の家督相続が済んだ。家臣にはそれぞれ新知、加増、役替(やくが)えなどがあった。中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には漏(も)れない。未亡人(びぼうじん)、老父母には扶持が与えられる。家屋敷を拝領して、作事までも上(かみ)からしむけられる。先代が格別入懇(じっこん)にせられた家柄で、死天(しで)の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが羨(うらや)みはしても妬(ねた)みはしない。
しかるに一種変った跡目(あとめ)の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに割(さ)いて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は殖(ふ)えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗(どんぐり)の背競(せいくら)べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。
政道は地道(じみち)である限りは、咎(とが)めの帰するところを問うものはない。一旦(いったん)常に変った処置があると、誰の捌(さば)きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側(そば)去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽(とぎ)には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察(かさつ)に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄(ほうろく)分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴(ものな)れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染(なじ)みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑(いや)しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措(お)いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒(ほ)めるものがない。上(かみ)では弥一右衛門の遺骸(いがい)を霊屋(おたまや)のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強(し)いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目(めんぼく)を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上(かみ)で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家侮蔑(ぶべつ)の念が公(おおやけ)に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩(ほうばい)にうとんぜられて、怏々(おうおう)として日を送った。
寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋(おたまや)のそばにはまだ妙解寺(みょうげじ)は出来ていぬが、向陽院という堂宇(どうう)が立って、そこに妙解院殿の位牌(いはい)が安置せられ、鏡首座(きょうしゅざ)という僧が住持している。忌日(きにち)にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚(てんゆうおしょう)が京都から下向(げこう)する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
いよいよ当日になった。うららかな日和(ひより)で、霊屋のそばは桜の盛りである。向陽院の周囲には幕を引き廻わして、歩卒が警護している。当主がみずから臨場して、まず先代の位牌に焼香し、ついで殉死者十九人の位牌に焼香する。それから殉死者遺族が許されて焼香する、同時に御紋附上下(かみしも)、同時服(じふく)を拝領する。馬廻(うままわり)以上は長上下(なががみしも)、徒士(かち)は半上下(はんがみしも)である。下々(しもじも)の者は御香奠(ごこうでん)を拝領する。
儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来(しゅったい)した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退(の)きしなに、脇差の小柄(こづか)を抜き取って髻(もとどり)を押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然(ぼうぜん)として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若(じじゃく)として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。
権兵衛が詰衆(つめしゅう)に尋ねられて答えたところはこうである。貴殿らはそれがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。父弥一右衛門は一生瑕瑾(かきん)のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人にさきだって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたいのを、上(かみ)にもご承知と見えて、知行を割(さ)いて弟どもにおつかわしなされた。それがしは故殿様にも御当主にも亡き父にも一族の者どもにも傍輩(ほうばい)にも面目がない。かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。お場所柄(がら)を顧みざるお咎(とが)めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである。
権兵衛の答を光尚は聞いて、不快に思った。第一に権兵衛が自分に面当(つらあ)てがましい所行(しょぎょう)をしたのが不快である。つぎに自分が外記の策を納(い)れて、しなくてもよいことをしたのが不快である。まだ二十四歳の血気の殿様で、情を抑え欲を制することが足りない。恩をもって怨(うら)みに報いる寛大の心持ちに乏しい。即座に権兵衛をおし籠(こ)めさせた。それを聞いた弥五兵衛以下一族のものは門を閉じて上の御沙汰(ごさた)を待つことにして、夜陰に一同寄り合っては、ひそかに一族の前途のために評議を凝(こ)らした。
阿部一族は評議の末、このたび先代一週忌の法会(ほうえ)のために下向して、まだ逗留(とうりゅう)している天祐和尚にすがることにした。市太夫は和尚の旅館に往って一部始終を話して、権兵衛に対する上の処置を軽減してもらうように頼んだ。和尚はつくづく聞いて言った。承れば御一家のお成行(なりゆ)き気の毒千万である。しかし上の御政道に対してかれこれ言うことは出来ない。ただ権兵衛殿に死を賜わるとなったら、きっと御助命を願って進ぜよう。ことに権兵衛殿はすでに髻(もとどり)を払われてみれば、桑門(そうもん)同様の身の上である。御助命だけはいかようにも申してみようと言った。市太夫は頼もしく思って帰った。一族のものは市太夫の復命を聞いて、一条の活路を得たような気がした。そのうち日が立って、天祐和尚の帰京のときが次第に近づいて来た。和尚は殿様に逢(あ)って話をするたびに、阿部権兵衛が助命のことを折りがあったら言上しようと思ったが、どうしても折りがない。それはそのはずである。光尚はこう思ったのである。天祐和尚の逗留中に権兵衛のことを沙汰したらきっと助命を請われるに違いない。大寺の和尚の詞(ことば)でみれば、等閑(なおざり)に聞きすてることはなるまい。和尚の立つのを待って処置しようと思ったのである。とうとう和尚は空(むな)しく熊本を立ってしまった。
天祐和尚が熊本を立つや否や、光尚はすぐに阿部権兵衛を井出の口に引き出(い)だして縛首(しばりくび)にさせた。先代の御位牌に対して不敬なことをあえてした、上(かみ)を恐れぬ所行として処置せられたのである。
弥五兵衛以下一同のものは寄り集まって評議した。権兵衛の所行は不埓(ふらち)には違いない。しかし亡父弥一右衛門はとにかく殉死者のうちに数えられている。その相続人たる権兵衛でみれば、死を賜うことは是非(ぜひ)がない。武士らしく切腹仰せつけられれば異存はない。それに何事ぞ、奸盗(かんとう)かなんぞのように、白昼に縛首にせられた。この様子で推すれば、一族のものも安穏には差しおかれまい。たとい別に御沙汰がないにしても、縛首にせられたものの一族が、何の面目あって、傍輩に立ち交(まじ)わって御奉公をしよう。この上は是非におよばない。何事があろうとも、兄弟わかれわかれになるなと、弥一右衛門殿の言いおかれたのはこのときのことである。一族討手(うって)を引き受けて、ともに死ぬるほかはないと、一人の異議を称えるものもなく決した。
阿部一族は妻子を引きまとめて、権兵衛が山崎の屋敷に立て籠(こも)った。
おだやかならぬ一族の様子が上(かみ)に聞えた。横目(よこめ)が偵察(ていさつ)に出て来た。山崎の屋敷では門を厳重に鎖(とざ)して静まりかえっていた。市太夫や五太夫の宅は空屋になっていた。
討手(うって)の手配(てくば)りが定められた。表門は側者頭(そばものがしら)竹内数馬長政(たけのうちかずまながまさ)が指揮役をして、それに小頭(こがしら)添島九兵衛(そえじまくへえ)、同じく野村庄兵衛(しょうべえ)がしたがっている。数馬は千百五十石で鉄砲組三十挺(ちょう)の頭(かしら)である。譜第(ふだい)の乙名(おとな)島徳右衛門が供をする。添島、野村は当時百石のものである。裏門の指揮役は知行五百石の側者頭高見権右衛門重政(しげまさ)で、これも鉄砲組三十挺の頭である。それに目附畑十太夫と竹内数馬の小頭で当時百石の千場(ちば)作兵衛とがしたがっている。
討手は四月二十一日に差し向けられることになった。前晩に山崎の屋敷の周囲には夜廻りがつけられた。夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀(へい)をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利(さぶり)嘉左衛門が組の足軽丸山三之丞(さんのじょう)が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。
かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬようにいたせというのが一つ。討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人(おちうど)は勝手に討ち取れというのが二つであった。
阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈(くま)なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若(ろうにゃく)打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸(しがい)を埋めた。あとに残ったのは究竟(くっきょう)の若者ばかりである。弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子襖(ふすま)を取り払った広間に家来を集めて、鉦太鼓(かねたいこ)を鳴らさせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。これは老人や妻子を弔(とむら)うためだとは言ったが、実は下人(げにん)どもに臆病(おくびょう)の念を起させぬ用心であった。
阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は柄本(つかもと)又七郎、平山三郎の住いであった。
このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、志岐(しき)の三家の一つである。小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅(ちゅう)せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。
又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は鎗(やり)が得意で、又七郎も同じ技(わざ)を嗜(たし)むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が上手(じょうず)でもそれがしにはかなうまい」、「いやそれがしがなんでお手前に負けよう」などと言っていた。
そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠(たてこも)りという順序に、阿部家がだんだん否運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をした。
ある日又七郎が女房に言いつけて、夜ふけてから阿部の屋敷へ見舞いにやった。阿部一族は上(かみ)に叛(そむ)いて籠城めいたことをしているから、男同志は交通することが出来ない。しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。ましてや年来懇意にした間柄である。婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはやったのである。女房は夫の詞(ことば)を聞いて、喜んで心尽くしの品を取り揃えて、夜ふけて隣へおとずれた。これもなかなか気丈な女で、もし後日に発覚したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑はかけまいと思ったのである。
阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居(ろうきょ)している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心(しん)から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提(ぼだい)を弔(とむろ)うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向(えこう)をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。
阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで後日の咎(とが)めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の軍(いくさ)も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手(ふところで)をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。そこで更闌(こうた)けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣(たけがき)の結び縄(なわ)をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、長押(なげし)にかけた手槍(てやり)をおろし、鷹(たか)の羽の紋の付いた鞘(さや)を払って、夜の明けるのを待っていた。
討手として阿部の屋敷の表門に向うことになった竹内数馬は、武道の誉れある家に生まれたものである。先祖は細川高国の手に属して、強弓(ごうきゅう)の名を得た島村弾正貴則(だんじょうたかのり)である。享禄(きょうろく)四年に高国が摂津国(せっつのくに)尼崎(あまがさき)に敗れたとき、弾正は敵二人を両腋(りょうわき)に挟(はさ)んで海に飛び込んで死んだ。弾正の子市兵衛は河内の八隅家(やすみけ)に仕えて一時八隅と称したが、竹内越(たけのうちごえ)を領することになって、竹内(たけのうち)と改めた。竹内市兵衛の子吉兵衛は小西行長に仕えて、紀伊国(きいのくに)太田の城を水攻めにしたときの功で、豊臣太閤に白練(しろねり)に朱の日の丸の陣羽織をもらった。朝鮮征伐のときには小西家の人質として、李王宮に三年押し籠(こ)められていた。小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されていたが、主君と物争いをして白昼に熊本城下を立ち退(の)いた。加藤家の討手に備えるために、鉄砲に玉をこめ、火縄に火をつけて持たせて退いた。それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。この吉兵衛に五人の男子があった。長男はやはり吉兵衛と名のったが、のち剃髪(ていはつ)して八隅見山(けんざん)といった。二男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男がすなわち数馬である。
数馬は忠利の児小姓(こごしょう)を勤めて、島原征伐のとき殿様のそばにいた。寛永十五年二月二十五日細川の手のものが城を乗り取ろうとしたとき、数馬が「どうぞお先手(さきて)へおつかわし下されい」と忠利に願った。忠利は聴かなかった。押し返してねだるように願うと、忠利が立腹して、「小倅(こせがれ)、勝手にうせおれ」と叫んだ。数馬はそのとき十六歳である。「あっ」と言いさま駈け出すのを見送って、忠利が「怪我をするなよ」と声をかけた。乙名(おとな)島徳右衛門、草履取(ぞうりとり)一人、槍持(やりもち)一人があとから続いた。主従四人である。城から打ち出す鉄砲が烈(はげ)しいので、島が数馬の着ていた猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織の裾(すそ)をつかんであとへ引いた。数馬は振り切って城の石垣に攀(よ)じ登る。島も是非なくついて登る。とうとう城内にはいって働いて、数馬は手を負った。同じ場所から攻め入った柳川の立花飛騨守宗茂(ひだのかみむねしげ)は七十二歳の古武者(ふるつわもの)で、このときの働きぶりを見ていたが、渡辺新弥、仲光内膳(なかみつないぜん)と数馬との三人が天晴(あっぱ)れであったと言って、三人へ連名の感状をやった。落城ののち、忠利は数馬に関兼光(せきかねみつ)の脇差をやって、禄を千百五十石に加増した。脇差は一尺八寸、直焼(すぐやき)無銘、横鑢(よこやすり)、銀の九曜(くよう)の三並(みつなら)びの目貫(めぬき)、赤銅縁(しゃくどうぶち)、金拵(きんごしら)えである。目貫の穴は二つあって、一つは鉛で填(う)めてあった。忠利はこの脇差を秘蔵していたので、数馬にやってからも、登城のときなどには、「数馬あの脇差を貸せ」と言って、借りて差したこともたびたびある。
光尚に阿部の討手を言いつけられて、数馬が喜んで詰所へ下がると、傍輩(ほうばい)の一人がささやいた。
「奸物(かんぶつ)にも取りえはある。おぬしに表門の采配(さいはい)を振らせるとは、林殿にしてはよく出来た」
数馬は耳をそばだてた。「なにこのたびのお役目は外記(げき)が申し上げて仰せつけられたのか」
「そうじゃ。外記殿が殿様に言われた。数馬は御先代が出格のお取立てをなされたものじゃ。ご恩報じにあれをおやりなされいと言われた。もっけの幸いではないか」
「ふん」と言った数馬の眉間(みけん)には、深い皺(しわ)が刻まれた。「よいわ。討死するまでのことじゃ」こう言い放って、数馬はついと起って館(やかた)を下がった。
このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使いをやって、「怪我をせぬように、首尾よくいたして参れ」と言わせた。数馬は「ありがたいお詞(ことば)をたしかに承ったと申し上げて下されい」と言った。
数馬は傍輩の口から、外記が自分を推してこのたびの役に当らせたのだと聞くや否や、即時に討死をしようと決心した。それがどうしても動かすことの出来ぬほど堅固な決心であった。外記はご恩報じをさせると言ったということである。この詞ははからず聞いたのであるが、実は聞くまでもない、外記が薦(すす)めるには、そう言って薦めるにきまっている。こう思うと、数馬は立ってもすわってもいられぬような気がする。自分は御先代の引立てをこうむったには違いない。しかし元服をしてからのちの自分は、いわば大勢の近習(きんじゅ)のうちの一人で、別に出色のお扱いを受けてはいない。ご恩には誰も浴している。ご恩報じを自分に限ってしなくてはならぬというのは、どういう意味か。言うまでもない、自分は殉死するはずであったのに、殉死しなかったから、命がけの場所にやるというのである。命は何時でも喜んで棄てるが、さきにしおくれた殉死の代りに死のうとは思わない。今命を惜しまぬ自分が、なんで御先代の中陰の果ての日に命を惜しんだであろう。いわれのないことである。畢竟(ひっきょう)どれだけのご入懇(じっこん)になった人が殉死するという、はっきりした境はない。同じように勤めていた御近習の若侍のうちに殉死の沙汰がないので、自分もながらえていた。殉死してよいことなら、自分は誰よりもさきにする。それほどのことは誰の目にも見えているように思っていた。それにとうにするはずの殉死をせずにいた人間として極印(ごくいん)を打たれたのは、かえすがえすも口惜しい。自分はすすぐことの出来ぬ汚れを身に受けた。それほどの辱(はじ)を人に加えることは、あの外記でなくては出来まい。外記としてはさもあるべきことである。しかし殿様がなぜそれをお聴きいれになったか。外記に傷つけられたのは忍ぶことも出来よう。殿様に棄てられたのは忍ぶことが出来ない。島原で城に乗り入ろうとしたとき、御先代がお呼び止めなされた。それはお馬廻りのものがわざと先手(さきて)に加わるのをお止めなされたのである。このたび御当主の怪我をするなとおっしゃるのは、それとは違う。惜しい命をいたわれとおっしゃるのである。それがなんのありがたかろう。古い創(きず)の上を新たに鞭(むち)うたれるようなものである。ただ一刻も早く死にたい。死んですすがれる汚れではないが、死にたい。犬死でもよいから、死にたい。
数馬はこう思うと、矢も楯(たて)もたまらない。そこで妻子には阿部の討手を仰せつけられたとだけ、手短(てみじか)に言い聞かせて、一人ひたすら支度を急いだ。殉死した人たちは皆安堵(あんど)して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲(く)み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房(にょうぼう)は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題(さかやき)を剃(そ)って、髪には忠利に拝領した名香初音(はつね)を焚(た)き込めた。白無垢(しろむく)に白襷(しろだすき)、白鉢巻(しろはちまき)をして、肩に合印(あいじるし)の角取紙(すみとりがみ)をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛(まさもり)で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念(かたみ)である。それに初陣(ういじん)の時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。
手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋(わらじ)の緒(お)を男結(おとこむす)びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。
阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国(おうみのくに)和田に住んだ和田但馬守(たじまのかみ)の裔(すえ)である。初め蒲生賢秀(がもうかたひで)にしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。忠利の兄与一郎忠隆(ただたか)の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道休無(きゅうむ)となって流浪したとき、高野山(こうやさん)や京都まで供をした。それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭(ばんがしら)にした。知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた廉(かど)で、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して側者頭(そばものがしら)になっていたのである。権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前長船(おさふね)の刀を取り出して帯びた。そして十文字の槍を持って出た。
竹内数馬の手に島徳右衛門がいるように、高見権右衛門は一人の小姓を連れている。阿部一族のことのあった二三年前の夏の日に、この小姓は非番で部屋に昼寝をしていた。そこへ相役の一人が供先から帰って真裸(まはだか)になって、手桶(ておけ)を提(さ)げて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と言いざまに枕を蹴(け)った。小姓は跳(は)ね起きた。
「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」こう言って抜打ちに相役を大袈裟(おおげさ)に切った。
小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って仔細(しさい)を話した。「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」と、肌(はだ)を脱いで切腹しようとした。乙名が「まず待て」と言って権右衛門に告げた。権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのまま館(やかた)へ出て忠利に申し上げた。忠利は「尤(もっと)ものことじゃ。切腹にはおよばぬ」と言った。このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
小姓は箙(えびら)を負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。
寛永十九年四月二十一日は麦秋(むぎあき)によくある薄曇りの日であった。
阿部一族の立て籠っている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の手のものは払暁(ふつぎょう)に表門の前に来た。夜通し鉦太鼓(かねたいこ)を鳴らしていた屋敷のうちが、今はひっそりとして空家(あきや)かと思われるほどである。門の扉(とびら)は鎖(とざ)してある。板塀の上に二三尺伸びている夾竹桃(きょうちくとう)の木末(うら)には、蜘(くも)のいがかかっていて、それに夜露が真珠のように光っている。燕(つばめ)が一羽どこからか飛んで来て、つと塀のうちに入った。
数馬は馬を乗り放って降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけい」と言った。足軽が二人塀を乗り越してうちにはいった。門の廻りには敵は一人もいないので、錠前を打ちこわして貫(かん)の木を抜いた。
隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のように往(ゆ)き来(き)して、隅々(すみずみ)まで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、籠(こ)み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。これも手槍を提げて台所へ見に出た。
二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「や、又七郎か」と、弥五兵衛が声をかけた。
「おう。かねての広言がある。おぬしが槍の手並みを見に来た」
「ようわせた。さあ」
二人は一歩しざって槍を交えた。しばらく戦ったが、槍術は又七郎の方が優れていたので、弥五兵衛の胸板をしたたかにつき抜いた。弥五兵衛は槍をからりと棄てて、座敷の方へ引こうとした。
「卑怯(ひきょう)じゃ。引くな」又七郎が叫んだ。
「いや逃げはせぬ。腹を切るのじゃ」言いすてて座敷にはいった。
その刹那(せつな)に「おじ様、お相手」と叫んで、前髪の七之丞が電光のごとくに飛んで出て、又七郎の太股(ふともも)をついた。入懇(じっこん)の弥五兵衛に深手を負わせて、覚えず気が弛(ゆる)んでいたので、手錬の又七郎も少年の手にかかったのである。又七郎は槍を棄ててその場に倒れた。
数馬は門内に入って人数を屋敷の隅々に配った。さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細目にあけてある。数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門が押し隔てて、詞せわしくささやいた。
「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」
徳右衛門は戸をがらりとあけて飛び込んだ。待ち構えていた市太夫の槍に、徳右衛門は右の目をつかれてよろよろと数馬に倒れかかった。
「邪魔じゃ」数馬は徳右衛門を押し退けて進んだ。市太夫、五太夫の槍が左右のひわらをつき抜いた。
添島九兵衛、野村庄兵衛が続いて駆け込んだ。徳右衛門も痛手に屈せず取って返した。
このとき裏門を押し破ってはいった高見権右衛門は十文字槍をふるって、阿部の家来どもをつきまくって座敷に来た。千場(ちば)作兵衛も続いて籠(こ)み入った。
裏表二手のものどもが入り違えて、おめき叫んで衝(つ)いて来る。障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、皿(さら)に盛られた百虫(ひゃくちゅう)の相啖(あいくら)うにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。
市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどの創(きず)を受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。七之丞はいつのまにか倒れている。
太股(ふともも)をつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のものが見て、「手をお負(お)いなされたな、お見事じゃ、早うお引きなされい」と言って、奥へ通り抜けた。「引く足があれば、わしも奥へはいるが」と、又七郎は苦々しげに言って歯咬(はが)みをした。そこへ主のあとを慕って入り込んだ家来の一人が駈けつけて、肩にかけて退いた。
今一人の柄本家の被官(ひかん)天草平九郎というものは、主の退(の)き口(くち)を守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
竹内数馬の手では島徳右衛門がまず死んで、ついで小頭添島九兵衛が死んだ。
高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも槍脇(やりわき)を詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。
「あの丸(たま)はわたくしが受け止めます」と言って、小姓が権右衛門の前に立つと、丸が来てあたった。小姓は即死した。竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は重手(おもで)を負って台所に出て、水瓶(みずかめ)の水を呑(の)んだが、そのままそこにへたばっていた。
阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。
高見権右衛門は裏表の人数を集めて、阿部が屋敷の裏手にあった物置小屋を崩(くず)させて、それに火をかけた。風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど未(ひつじ)の刻であった。
光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿部一族を討ちにやった二十一日の日には、松野左京の屋敷へ払暁(ふつぎょう)から出かけた。
館(やかた)のあるお花畠(はなばたけ)からは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。
「今討ち入ったな」と言って、光尚は駕籠(かご)に乗った。
駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。竹内数馬が討死をしたことは、このときわかった。
高見権右衛門は討手の総勢を率いて、光尚のいる松野の屋敷の前まで引き上げて、阿部の一族を残らず討ち取ったことを執奏してもらった。光尚はじきに逢おうと言って、権右衛門を書院の庭に廻らせた。
ちょうど卯(う)の花の真っ白に咲いている垣(かき)の間に、小さい枝折戸(しおりど)のあるのをあけてはいって、権右衛門は芝生の上に突居(ついい)た。光尚が見て、「手を負ったな、一段骨折りであった」と声をかけた。黒羽二重(くろはぶたえ)の衣服が血みどれになって、それに引上げのとき小屋の火を踏み消したとき飛び散った炭や灰がまだらについていたのである。
「いえ。かすり創(きず)でござりまする」権右衛門は何者かに水落(みずおち)をしたたかつかれたが懐中していた鏡にあたって穂先がそれた。創はわずかに血を鼻紙ににじませただけである。
権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。
「数馬はどうじゃった」
「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」
「さようか。皆のものに庭へはいれと言え」
権右衛門が一同を呼び入れた。重手(おもで)で自宅へ舁(か)いて行かれた人たちのほかは、皆芝生に平伏した。働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。光尚が声をかけた。
「十太夫、そちの働きはどうじゃった」
「はっ」と言ったぎり黙って伏していた。十太夫は大兵(だいひょう)の臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいったのである。最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者新免武蔵(しんめんむさし)が見て、「冥加至極(みょうがしごく)のことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」と言って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、ゆるんでいた袴(はかま)の紐(ひも)を締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうである。
光尚は座を起つとき言った。「皆出精(しゅっせい)であったぞ。帰って休息いたせ」
竹内数馬の幼い娘には養子をさせて家督相続を許されたが、この家はのちに絶えた。高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛は各(かく)五十石の加増を受けた。柄本又七郎へは米田監物(こめだけんもつ)が承って組頭谷内蔵之允(たにくらのすけ)を使者にやって、賞詞(ほめことば)があった。親戚朋友(しんせきほうゆう)がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀(げんき)天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒(い)えて光尚に拝謁(はいえつ)した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城(ましき)小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山(やぶやま)である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それを私(わたくし)に拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は永代御預(えいたいおあず)けということになった。
畑十太夫は追放せられた。竹内数馬の兄八兵衛は私に討手に加わりながら、弟の討死の場所に居合わせなかったので、閉門を仰せつけられた。また馬廻りの子で近習を勤めていた某(それがし)は、阿部の屋敷に近く住まっていたので、「火の用心をいたせ」と言って当番をゆるされ、父と一しょに屋根に上がって火の子を消していた。のちにせっかく当番をゆるされた思召(おぼしめ)しにそむいたと心づいてお暇(いとま)を願ったが、光尚は「そりゃ臆病ではない、以後はも少し気をつけるがよいぞ」と言って、そのまま勤めさせた。この近習は光尚の亡くなったとき殉死した。
阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。
大正二年一月
底本:「日本の文学3 森鴎外(二)」中央公論社
1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:進恵子
ファイル作成:野口英司
2000年2月14日公開
2000年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
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●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
荼※(だび) 荼※所(だびしょ)
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